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教える側、教えられる側、とか固定しなくていいんじゃないかなって。

そらのうた算数・数学クラスでは講義がありません。

また、大量の宿題を出すわけでもないし、特別なテキストがあるわけでもありません。

 

それでも、

・成績が大幅にアップした。

・算数・数学が好きになった。

・勉強に対して前向きになった。

 

こうした声を多数いただいています。

 

 

なぜこんなことが起きるのか・・・。

それは「教える側=先生」と「教えられる側=生徒」という関係を

疑ってみたところがスタートとなっています。

 

例えば教室では、小学生は私のことを「池ちゃん」って呼びます。

先生とは呼びません。

「池ちゃん、これ分からんから教えて」

気軽に声をかけてくれます。

 

同じように、生徒同士でも

「これ、どうやって解くんやろうなぁ〜」とか、

「こうやったら、できるかもよ?」とか、

「見直ししとかんと、ミスするで〜」とか・・・

お互いに気軽に声を掛け合っています。

 

そんなことをしていたら、ダラダラしちゃうんじゃないかとか、

真面目にやらなきゃ成績が伸びないんじゃないか・・・

そう思う方もいると思います。

 

しかし、ここにこそ学びための大切な要素があると私は考えています。

 

生徒同士が一緒に考える。

ヒントを出して教えあう。

声かけを掛け合う・・・。

ワイワイしているように見えて、

みんな真剣に取り組んでいます。

その輪の中に私もたまたま居合わせた・・・そんなイメージです。

 

生徒さんは自主的に勉強を進めていきます。

生徒が先生にも生徒にもなる。私もその中に居る。

 

こうした中で、生徒さんは無意識のうちに

高速でインプットとアウトプットを繰り返しています。

 

最初はそれぞれ取り組んでいます。インプットメインの時間です。

 

解けた子が、ヒントを出しています。

ヒントを出す側はアウトプットすることで学びます。

 

奥の方で、解けない子同士が知恵を共有しています。

相手の考えをインプットし、同時に相手に伝えるアウトプットの場面です。

最終的に二人の共同解答ができました。

 

上級生が下級生に定規の使い方を説明しています。

教える側もアウトプットと、モチベーションアップになります。

 

手前の中学生は個別でインプット中。

奥の小学生は間違えた箇所を見直し中。

間違えも共有することで、間違え=悪いこと、

というイメージから間違え=改善できること、

というイメージに変換できます。

 

勉強するというのは、インプットとアウトプットの両輪が揃って初めて

自分の血肉となると私は考えています。

 

いくらコミュニケーション能力に長けていても、

基本的な知識が無ければ良い人なんだけどなぁ・・・で終わるし、

 

いくら知識が豊富でも、他人に伝える力が無ければ、

その知識が活かせる場面が限られてしまいます。

 

両方を時間の中で自然に取り入れていく。

そうすることで、記憶に定着し理解が進むと考えています。

そして同時に自分の居場所があることを感じ、

ここなら言える、聞ける、居られる。

そう思ってくれればいいなと思います。

 

もちろんこちらから課題を提案したり、することを決めたりします。

そして解き方も教えるし、集中力が無ければ注意もします。

しかし最終的には生徒さん自身を信じてサポートに徹します。

 

この取り組みが少しずつ広がって、学ぶことって楽しいなとか、

聞くことって、教えることって、話すことって、楽しいなとか、

間違えても大丈夫なんだ、良くなっていけばいいんだとか・・・・

 

そんな輪が広がっていけば最高だなと思います。